さざなみ読書録

29歳のペーペー社会人が主に本の感想、ごくまれに創作物などを不定期で投稿します。さざなみも立たないような日常。

【感想】『ロマネスク』(『奇想と微笑』より)太宰治

 

『奇想と微笑 太宰治傑作選』(森見登美彦 編)

 を読んだ。

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森見登美彦氏は高校のころ読書にはまったときも大学院で読書を再開したときも、まず最初の一冊になった人だ。いわば僕の読書の門のような存在である。

 

 この本はそんな登美彦氏が敬愛する太宰治の著作のうち、「ヘンテコであること」「愉快であること」を主眼に選んだ傑作選とのこと。

確かにどの作品も喜劇が根底にあり、世の中を暗くとらえる太宰の視点もおかしさを感じさせて面白かった。

今回はその中でも特に好きな作品の一つ『ロマネスク』について、短くまとめておこうと思う。

 

『ロマネスク』

 初出は1934年。青空文庫から全文が読める。太宰治 ロマネスク

ざっくりあらすじ

 仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎が強力な能力から盛衰する様子をそれぞれ描き、最後に三者が出会う。

  仙術太郎

 庄屋の一人息子の太郎は、幼いころから予言をしたり村を救ったり仙術を身に着けたりと、人知を超えた芸当を軽々と繰り返す。

しかし恋をしたのが運の尽き、仙術でイイ男になろうとした結果、さながら仏像のような「天平イケメン」になってしまう。時代によってイケメンとは移ろう概念であることを太郎は悟った。

 戻ろうとしても私利私欲のために使った仙術は二度と解くことができず、太郎は物思いに耽りながらふらりふらりと歩いてゆくのだった。

  喧嘩次郎兵衛

 酒屋の次男である次郎兵衛は、居酒屋の客からはやし立てられ、喧嘩に強くなることを決意した。

 三年の研究と修行の結果、次郎兵衛は父親から火消し頭の名誉職を受け継ぐことになる。周囲の人からどんどん信頼を集め、喧嘩したくても機会は一度も訪れない。

 

 結局喧嘩する機会のなかった次郎兵衛は向かいの娘と結婚する。ところがある晩たわむれに嫁に喧嘩のふりをして見せると、当たり所が悪く殺してしまう。

 次郎兵衛は牢屋に入るが、落ち着き払った態度は誰も馬鹿にすることを許さず、その人知を超えた強さの真価が発揮されることはなかった。

  嘘の三郎

 中国宗教を研究する父のもとに生まれた三郎は、隣の犬を殺し、遊び仲間を川に落として殺してしまうが、誰にも殺したことがばれなかった。罪の意識からどんどんと嘘を重ね、それは次第に人知を超えた域に入る。

 やがて父が死んだ。その遺書と遺産に塗りたくられた嘘の、あまりの醜さにばかばかしくなり、三郎は嘘偽りのない生活をしようと心に決める。

しかし「嘘のない生活」自体がすでに嘘のようなものである。最終的にただぼーっと日々が過ぎるのに任せた三郎は、ある日朝から居酒屋に入っていく。

 

 そこにいた二人の先客こそ、『驚くべし、仙術太郎と喧嘩次郎兵衛の二人であった。(原文ママ)』ここで三郎の才能が一気に爆発する。この人知を超えた才能人たちの半生を本にしてやろうと息まき、物語は幕を下ろす。

 

感想

 何よりもエンターテイメント的な要素が強く単純に面白い。

波乱万丈で一筋縄ではいかない三者三様の半生だけでも十分満足なのに、それ以上に最後三人が出会う展開が非常に熱い。

さながら鳥山明先生の描く読み切り漫画のようだ。

これから先、三人にいったいどんな物語が訪れるのか。

ワクワクさせる上手い書き方、終り方だなあと感心しきるばかりだった。

 

 次に、「人間の手に余る能力を身に着け、身を滅ぼす」という構造が三兄弟*1に一貫しているのがすごい。

太郎は仙術を手に入れ、様々なものに化けるまではよかった。恋をしたのがだめだった。

次郎は修行を重ね、喧嘩に強くなるまではよかった。それを披露したいと思い続けたのがいけなかった。

三郎は代筆や著作で金を稼ぐまではよかった。嘘の持つ厭らしさに気づいてしまったのが悪かった。

この並列構造が物語を分かりやすくし、かつ同じ(読んでいる時は全く同じだとは思えなかったが)展開を重ねることで深みを出しているように感じる。

 どんな力も使いようである。

僕はさいわいにも凡を極める部類の人間なので、きっと三兄弟のような人知を超えた力を手にする機会はないだろう。

それでも大なり小なり人に影響を与えることはあるはずだ。

特に来年度からは多くの人に関わる仕事に就くことが決まっている。

力を持つことになる。今もその準備期間のようなものだ。

その力を私利私欲のために使わないこと、見せびらかしてやろうとしないこと、うまく付き合っていくこと。当たり前のことだが、大事なことだと改めて思った。

 

 慎ましく生きよ、と痛快な物語の幕が下り切った劇場で、太宰がささやく声がした。

裏読みしすぎかもしれないが。

*1:もちろん兄弟ではないが、三郎が『私たち三人は兄弟だ。』と言った表現に倣った。

【雑記】気に入ったものと暮らす

 最近、本を読んでも読書メーターみねね - 読書メーター)よりちゃんと練ったり調べたりして感想を書くのがつらくなってきたんですよね。冬休みが終わって仕事が始まったせいもありますが、毎晩無気力症候群と不眠症のセットを発症しているのが主な原因です。

 心身ともにやられています。どこかで根本的な解決が必要ですね……。

 

 あ、でもこの間に『ファイト・クラブ』や『阿Q正伝』など古典的(?)名作を読んだので、そちらはまた弊ブログで感想をまとめたいと思います。

 そして何より、森絵都先生の『みかづき』は僕の将来にとって意味のある出会いでした。これは教育関係者必読の一冊です。感想をちゃんとまとめるために、学習指導要領改訂の流れとポイントなど、数か月前にすっかり忘却してしまったもろもろを現在復習しています。

 

気に入ったものと暮らす、不眠症に打ち勝つ

 ここ一週間ほど午前三時より前に眠れていないのですが、特に仕事や前向きな趣味に打ち込んでいるわけでもないんですよね。

 ひたすらツイッターのタイムラインを更新し続けたり(あのシュッ、ポンって音いいですよね)インスタのもう見たストーリーを何周かしたり読書メーターで自分の感想を見返して首を傾げたりと、生産性のないことしかできないのです。ちょっとまずいんじゃないかしらん。

 ある夜はひたすらカメラロールをスクロールして思い出さんでもいーことを延々と振り返っていました。最近そんなに嫌なことあったかな。

 それで、こんな写真が出てきました。

 

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普段使いの万年筆とインク。大学院生のころから少しずつ増えている。

 なんで撮ったかも忘れましたが、たいてい携帯しているペンケースの中身と、もっているだけのインク瓶の写真。

 

 僕、万年筆好きなんですよね。数学科の大学院生だったら筆記用具くらいは贅沢してもいいだろう、という謎の見栄から、少しずつ充実させています。

 実際、M2で研究をしていた際には大変お世話になりました。当時は写真の黒いペン(PILOTのCUSTOM 96 という名前だと思います)とブルーブラックのインク(右手前の白い六芒星っぽいマークの蓋がついたものです。ちなみにこれはモンブラン社のインクで、白い星マークは冠雪を表しています。モンブランの各万年筆にも採用されています。将来的に欲しい万年筆の一本ですがいかんせん超高級品……)しか持っていませんでしたが、万年筆が一本、インク瓶が一本で戦ってきたようなものです。

 思考を邪魔しない程度の書きやすさと、手が上滑りしない程度の摩擦で、ボールペンなどほかの筆記具よりもずっと「数学向き」でした。それに、インクを瓶から吸入して詰め替えるのがまたいい。今日は早めに帰ろう、あの定理は今日中に理解しておかないとな、なんて考えながらティッシュを真っ青にしつつインクを入れる時間で、日々のメリハリもつけられていたのではないかと思っています。

 

 ……語りすぎてしまった。とにかく数学の第一線から退いた後も、日記をつけたり、家や職場で一人机と向き合う時には万年筆を愛用しています。

 やっぱり、気に入ったものと暮らすのって大事ですね。モチベーションも上がるし。

 僕は小さく完結する方の人生を選んだ身なので、せめて狭い自分の世界でくらいは、自分の気に入ったもので囲んでおきたいものです。広義の世界を救うのはヒーローにお任せするので、僕は僕の世界を、いつでもひとさまを呼べる程度に、整ったものにして維持したいという思想です。

 

 ところが最近のこの不眠生活です。理想としている暮らしからも日々遠ざかっているような気がします。万年筆も先日久しぶりに使ったし、日記にいたっては新年入ってから書いていないような……。寝るべき時間に寝ていないと、朝目が覚めていても意欲が落ちてしまいます。

 スマホ依存気味なのが悪いのは明らかなんですよね。意志の力が弱まっているのを感じる。でも、無意識で(精神的に)しんどいときについスマホ見ちゃうのってどうしたらやめられるんでしょう。根性論のみに頼らない、システマティックな方法を身に着けたいものです。

 

 持ち運び用のパソコンを新調したり、本をたくさん買ったり、こうして万年筆を充実させたり。最近ようやく自分で自分の機嫌を取る方法、ちゃんと一人で生きていく方法を学び始めました。でも、気に入ったものとちゃんと暮らすには、自分もそれに見合うくらいちゃんとしないといけないなと思った次第です。

 明日からまた仕事です。頑張りましょう。おやすみなさい。

【創作】分水嶺

分水嶺』という掌編小説を書きました。

分水嶺というのは、こういう水の分かれ目みたいなもののことです。

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フリー写真サイトで見つけた分水嶺。「T字型」に見える。

湧いてきたイメージと「分水嶺」という言葉をはっきりさせるため

片手間でわかる程度のことは、

と調べてみましたが

余計混乱する結果になりました( 分水界 - Wikipedia しか見ていません)。

 

つまり僕の書く分水嶺は僕にとっての分水嶺であり、

分水嶺の専門家がいらっしゃれば非常に腹立たしい、

あるいはむず痒い思いをされるかもしれません。

その責任のすべては僕にあります。以上前書きおわり。

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 気づくと僕は、いつも分水嶺の上を歩いている。

 右足を包む水は後ろから流れ、右斜め前へと進んでゆく。左足を通り抜ける水は左斜め前だ。両足の間には、水を左右に分ける境目がずっと長く伸びている。一般的なT字型の分水嶺と違い、Y字型とでもいうべきか。不思議と右と左の水系のあいだには、どこまで行っても跨げるほどの細い境しかない。しかし大きな境だ。左足に流れる水は、二度と右足に流れる水にはなれない。逆もしかり。広い広い海に出て混ざり合ってしまったとき、はじめて再開を果たすのだろう。それが明日のことか、一か月後のことか、そもそも水路は行き止まりで、起りえないことなのか僕にはわからない。

 ぱっと見分水嶺とは思えない水流に足を浸していることもある。T字の横棒と縦棒との交点にある一般的な分水嶺、その点が無限に細長く伸びている感覚だ。

 そういうときは、右と左の足を流れてゆく水流の違いを感じる。この感覚のみで、細長く流れる水たちが、近い将来違う水系に属することを知る。

 とにかく大事なことは、足を冷やす水は進路が決まっているということだ。両方に片足ずつを浸す僕はまだ決まっていない。

 

 その日僕が歩いていた分水嶺は、どうやら義と不義の分かれ道であるようだった。

 

 僕は風呂の中でうとうとしていた。悩みを抱えながら風呂に入るとすぐ眠ってしまう。幼いころからちっとも直らない僕の悪癖の一つだ。

 午前十二時半。とっくに終電が過ぎたころ、友人の彼女が家に転がり込んできた。就職活動がうまくいっていないのか、リクルートスーツ姿のまま相当酒をあおったようだった。彼氏はどこだ、今日は泊まるから悪いけど帰ってくれ、などぶつぶつ言いながら、そのまま充電が切れるように玄関で眠り込んでしまった。

 酔った彼女は忘れているかもしれないが、このワンルームはつい先週からは僕の家だ。友人は就職し駅三つ向こうの町に引っ越している。大学に通うという観点から、このアパートは理想だった。そのまま通っていた大学の大学院に進学した僕は、この部屋を彼に譲ってもらった。彼女も十分知っているはずだった。

 どれだけ揺すっても、彼女は寝息を立て続けるばかりだ。僕は仕方なく彼女を抱え、ソファの上に寝かせた。

 泥酔したリクルートスーツの乙女は、それはもう無防備をかたちにしたようなものだった。彼女が友人と付き合う前、僕との間にあったことを思い出し、ついよこしまな気持が現れそうになる。落ち着け。僕はまだ風呂に入っていなかったことに気づき、逃げるように洗面所に向かった。何も考えないように湯船に沈み、今に至る。

 

 夢の中で幾通りもの現実の続きを営んでいた僕は、夢と夢の間に横たわる一瞬の幕間を挟んで、突如水流の上にいた。僕の五感が、これは夢とは全く密度の異なるものであると告げる。足もとには境目がない。ただ右足には右斜め前に、左足には左斜め前に水が流れている。分水嶺――僕の頭の中に三文字が浮かんでいた。

 義と不義の分かれ道。なんとわかりやすい人間であることか。僕は自分の単純さを誰かに言い当てられたような気がして、水流の上で一人苦笑いした。

 不義の道、もちろんそれが右側であるか左側であるかはどちらでも構わないが、ここでは便宜上、左側を不義としておこう。不義の道のほうが少し傾斜が強く、足を踏み外しやすい。僕の左足は必死に踏ん張っていた。逆に右足は右足で、流れる水に磨かれた岩が、反対側に足を滑らせろと言わんばかりにつるつるしている。右足を滑らせないために、普段使わない筋肉がぴくぴく動いていた。

 僕はこの比喩的水流に両足を浸し、水の進むどちらかの方向へ歩かねばならないようだった。一歩ずつ足を進めるたび、左右の水が流れを強くする。水流は目に見えない力で僕を左のほうへと引っ張ろうとしている。

 僕は自分の置かれている状況と、自分の精神が置かれている状況をはっきりと認めた。認めるや否や、左の水流に逆らって左足を大きく浮かせ、右側に体を倒した。不義の水流に逆らうのは一度きり、それも一瞬でいい。ばしゃりと水音を立て、僕は右側の緩やかで穏やかな水流に流されていく。あとは義の流れが僕をあるべき方向へ導いてくれる。いつもこうして分水嶺から離れていく。

 

 風呂から上がった僕は、髪を乾かしながら友人に連絡した。「ごめん、迷惑をかけた。ありがとう、すぐに迎えに行くからサイゼにでも投げ出しておいてくれ」と、すぐに友人から返事がきた。

僕は湯を沸かして友人の彼女を起こした。二つのカップに即席の梅昆布茶を注ぎ、片方を彼女に渡す。彼女は痛む頭を押さえていた。少し酔いからさめたらしい。

「向かいのサイゼリヤまで彼氏を呼んでおいたから、早く帰るといいよ」と僕は言った。

「ごめんなさい、迷惑をかけたようね」彼女は梅昆布茶を少しすすると、苦い顔をして立ち上がった。すっかり忘れていたが、彼女は梅昆布茶が嫌いだった。

「水でも飲む?」

「ありがとう。でもサイゼで何か頼むから大丈夫よ」彼女はバッグの中身を確認して、玄関に向かって歩き出した。ふらつく足でサイゼリヤに向かう彼女の後ろ姿を、僕は黙って見守っていた。

 

 

 しかししばらくすると、しばらくというのは明日のことだったり一か月後のことだったりするのだが、僕はまた分水嶺の上に立つことになる。どうやらまた義と不義の分水嶺のようだ。友人の彼女に関することに限らず、僕の周りには義も不義も掃いて捨てるほど転がっている。

 今回は困ったことに、どちらが義でどちらが不義か測りかねた。右と左、どちらも同じくらいの傾斜を持ち、悪意を感じるほどつるつるしている。義か不義かは、右か左か、という区別と対して変わらない気がしてきた。僕の右は、あなたから見たら左。

 ばかばかしい。僕はやけくそになって、とにかく僕から見て右に体を倒した。分水嶺から離れる。一瞬の葛藤。終わり。

 広い海に出られる気配は今のところない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【感想】『それからはスープのことばかり考えて暮らした』 吉田篤弘 2009

 よく行く本屋で、平積みされていたタイトルに一目惚れした。「ジャケ買い」ならぬ「タイトル買い」である。
 実は初めて読んだ吉田篤弘先生。読了後に初めて知ったが、一応三部作の二作目らしい。一作目『つむじ風食堂の夜』は聞いたことがある。読みたい本リストがさらに充実する結果となった。三部作を読んだ後でもう一回ちゃんとレビューを書くかもしれない。あるいは書かないかもしれない。


ざっくりとしたストーリー

 主人公のオーリィ青年は、仕事を辞めて、路面電車が走るこの街に越してくる。サンドイッチ店「トロワ」の店主安藤さんの勧めもあってトロワで働くことになり、サンドイッチに合うスープ作りを任されることになる。
 登場人物は少なく、オーリィ、大家のマダム、トロワの店主安藤さん、息子のリツ君、その友達の森田君、映画館で会う初老の女性、あとはオーリィの姉たちと映画館「月舟シネマ」のチケットもぎりの青年くらいである。これらの人物の共通点を挙げるとしたら、全員が「大切なものをなくしつつも、自分の暮らしを維持している/維持しようとしている」ことだろうか。
 オーリィは、ある女優が出演するマイナー映画を繰り返し見ることを趣味としている。その上映で出会う緑のベレー帽をした初老の女性と親しくなり、最終的に彼女のレシピである「名前のないスープ」を受け継ぐ。

 

感想

 あったかいスープを飲んだ後のような、全身がじんわりとあったまる読後感。大きな事件が起きたり、感情が強く揺さぶられたりする展開はないので、見方によっては退屈かもしれない。しかし、せめて読書でくらい安心を覚えたいぼくとしては、大変満足度の高い読書経験となった。
 最近「丁寧な暮らし」という文言をネット上でよく見かけるが、読んでいる間ずっとこれが頭に浮かんでいた。登場人物はみんな、いくらかの喪失を乗り越えながら、自分が「善い」と思う生活をのんびりしている。携帯電話を放棄しようとしている主人公の『僕』が、こう考えている。
『昔の時間は今よりのんびりと太っていて、それを「時間の節約」の名のもとに、ずいぶん細らせてしまったのが、今の時間のように思える。(p.50)』
 昔の日本映画を観たり、古いアンテナのテレビを叩きながら使ったり(2011年7月24日の完全地デジ化によりアナログ電波を受信するこの形のテレビは絶滅してしまったはずだ)、『僕』はのんびりとした時間を生きている。また、失業中でもさして思いつめることなく、職を探さなければな、という程度である。のんびりしすぎのようにも思うが、ピリピリした空気を殆んど感じることがなくて、心乱されることなく穏やかに読めた。


 時計と教会について

 「時計」の章では今までほのめかされるばかりだった安藤さん、マダム、あおいさんそれぞれの喪失が「形見の手巻き時計」という道具を通して具体的な形を成す。
 あおいさんとマダムが時計を巻き続けたのに対し、安藤さんだけ「なぜか時計が止まらない」というのは、男女差なのだろうか。こっそり時計を巻き続けた息子のリツ君との違いがはっきり表れている。ただし、時計を巻かなかった安藤さんも、時計を巻き続けたリツ君も、ともに教会に祈り続けていたのは親子共通だ。
 父である安藤さんは、牧師さんと言葉を交わし、静かに祈りを捧げる。
 リツ君はもくもくと時計を巻きながら、こっそり祈りを捧げる。
 誰にも言わないリツ君の子供らしさと、牧師さんという社会(ちょっと言いすぎかしらん)との繋がりを大切にする安藤さんの大人性。そして、もういない人のためにともに祈りをささげる親子。
 一話目の『教会が祈る場所であることを、僕はもう長いこと忘れていた気がする。(p.15)』というのはこの伏線だったのかなとついつい深読みしてしまう。

 

 


 人と人の隙間について(余談)

 ここからは完全にぼくについての話である。
 本書では「遠まわり」「知らぬふり」といった表現がされるが、本当はわかっていることや、本当は気になることでも、人は大人になるにつれて話しにくくなってゆく(と、ぼくは思っているし、そういう歳の取り方をしてきた)。ここに人間関係の隙間のようなものを感じる。
 この隙間――便宜上「隙間」という言葉を使うことにするーーは、けっして悪いものではない。
 人それぞれには固有の形があり、ぴったりくっつけようとすると、微妙な凹凸に引っかかってけがしてしまう。ぼくは少しずつ、本当に少しずつだが、自分の形や周囲の人々の形が見えるようになってきた。ぶつからず互いが動きあえる、一番気持ちのいい隙間を、探り探り見つけてきたのだ。もちろんそれまでの間に、おそらくこれからも、大小さまざまな衝突があり、痛みがあった。場合によってはえぐれて自分の形が変わってしまったことも。それでもなんとか自分なりにうまくやってきたつもりだ。
 ともかく、この隙間があるからこそ人間関係が円滑になるとぼくは思っている。そしてもちろん、隙間があるからこそ孤独が生まれるとも思っている。

 この物語は、隙間の物語だ。僕、オーリィ君についての情報はあまりにも語られないし、前述したそれぞれの喪失も、最後の「時計」の章までは「知らぬふり」をされる。ただし隙間が隙間のままで終わらないのが物語の良さであり、心地よさである。
 トロワのサンドイッチに合ったスープを作る。あおいさんのスープを受け継ぐ。それはあおいさんの手を離れ、「ぼくたちのスープ」になる。状況だけ書けばなんの変哲もない物語だが、これはただ僕がぼんやりと生きていたのでは決して生まれなかったバトンの受け渡しであり、このスープを媒質に僕と周囲の人々が「知らぬふり」をしてきた隙間が少しずつ埋められていく。同時に、全ての隙間が埋まるわけではなく、本当に気持ちのいい塩梅で幕が下りる。

 ぼくも「知らぬふり」をしていることは山ほどある。同様に「知らぬふり」をしてくれているから、良き友達付き合いができているとも思うし、「知らぬふり」をしてくれているから、ぼくはいつまで経っても独りだとも思う。
 暖かに読者を包むこの本は、やわらかく隙間を埋める心地よさ、隙間を隙間のままで置く塩梅を教えてくれる。
 ぼくにとってのスープを見つけ、埋めるべき隙間を埋められるよう、まっすぐ生きていきたい。

【感想】『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹 1986

 新年一冊目の小説は、村上春樹先生初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』。もうタイトルから恰好がいい。

 2日の夜に「中国行きのスロウ・ボード」を読み切り、翌3日の夜に残りの短編を一気に読んでしまった。年末に近所の本屋に行った時に、デビュー40周年だか何だかで平積みされていたもの。積読期間は非常に短かった。

 

1973年のピンボール』の後に前半4編、『羊をめぐる冒険』のあとに後半3編が書かれたらしく(3ページ)、春木作品の中でも初期の瑞々しさ、文体の堅さを感じることができる。一つ一つがパンチの効いた作品なので、ぼくの拙い読書歴ではとても太刀打ちできるものではないが、それでも誠意を込めて、一作ずつ読んだ感想をまとめてみようと思う。

 

中国行きのスロウ・ボート

「僕」がこれまでの人生で出会ってきた三人の中国人を通して、中国に思いを馳せる話。

 模試の試験監督。二人目はアルバイト先のまじめな女の子。三人目は高校の同級生で中国人限定のセールス・マン。程度の大小はあれ、というより二人目の女の子以外は忘れてしまってもいいほどのことだが、三人に対して、僕は負い目がある。

 現在も中国と日本との関係は良好とはいえないみたいだが、1980年当時日本は中国に対してどのような姿勢だったのだろうか。恐らく、僕が中国に対して抱く思いをきちんと描くには、ここらの時代背景を捉えることが、とても重要になる気がするがどうなんだろう。

 

 とにかくこの三人、そして多くの本を通して僕は「中国」を思い描くが、それは現実にある中華民国のことではない。僕の中にしかない、僕の中国なのだ。それは遠く離れた中国についてだけではない。今住んでいる東京についても、まったく同じことが言える。「僕たちは何処にも行けるし、どこにも行けない(p.50)」のだ。

 

『貧乏な叔母さんの話』

 貧乏な叔母さん。この言葉に取りつかれた「僕」は、いつの間にか貧乏な叔母さんに本当に憑りつかれ、周囲から人が離れていく。ある日、電車で向かいに乗り合わせた親子連れの、小さな女の子が「貧乏な叔母さん」である様子を見た僕は、いつの間にか自分に憑いていた貧乏な叔母さんが消えていることに気付く。

 

 これは読んでいて苦しかったな。どちらかと言えば、ぼくも貧乏な叔母さんだからだ。この作品の中で「貧乏な叔母さん」は「冴えない」、「不憫」、「間が悪い」と言ったことのメタファーのように映る。善い生活を送ろうとすると、そこには必ず「よくない生活」が定義される(特に村上春樹の「僕」が送る、あるいは送ろうとしている生活が善い生活だとぼくは考えている)。人も同じだ。ぼくのような、よくない側の人への憐憫と、憐憫を持つこと自体の傲慢を戒めた(もし一万年の後に貧乏な叔母さんたちだけの社会が出現したとすれば、僕のために彼女たちは街の門を開いてくれるのだろうか? p.89 という記述がある)作品のように思えた。

 

『ニューヨーク炭鉱の悲劇』

 これはよく分からない作品だった! 原曲や当時のことをよく知っていないと分からないのかな。20代前半という危険な曲がり角を越えたはずの「僕」の周りで、次々と人が死ぬ。葬式。パーティでは僕に似た男を殺した、という女と会話をする。最後の炭鉱の場面は同名の曲の場面のことか。

 つい最近のことで言うと『100日後に死ぬワニ( 

https://twitter.com/yuukikikuchi/status/1206558270195822593

)』に似た感覚を覚えた。色々な人が死ぬし、自分も死と隣り合わせで生きているが、誰もそれを知らず、穴を掘り続けている。

 

『カンガルー通信』

 これは気持ち悪い! 現代ならストーカーで通報もの。

 商品管理部で働く「僕」が、買い間違えたレコードの返品を求める女性の手紙に対し性的に興奮し、個人的な返信として吹き込んだテープレター(というのだろうか?)を文章にした作品。これが少しずつ明らかになっていく様はお見事。

 唯一共感できたのは不完全だからこそ手紙を出した、というところか。書く人がいて、受け取る人がいて、内容が言葉で伝えられる以上、完全な手紙なんてものは存在しないとぼくは考えるし、完全を目指していたらいつまでたっても手紙は出せないだろう。それにしても「カンガルー通信」は不完全が過ぎるように思えるが……。

 

『午後の最後の芝生』

 『カンガルー通信』と打って変わって爽やかな夏を感じられる描写の多い作品。

 芝刈りのアルバイトをしていた「僕」は、彼女から別れを告げる手紙を受け取り、同時にアルバイトも辞める。最後の仕事として向かった先では男勝りな口調で、昼前からウォッカを飲みまくる未亡人がいた。僕の丁寧な仕事は彼女に気に入られる。仕事後、彼女の娘の部屋を彼女に言われるがまま物色させられ、感想を求められ僕は当惑する。

 

 これはストーリーとしては怪異もないし平坦だが、そのぶんそこに込められたものを読み解くのは難解なのではないだろうか。なぜ未亡人は娘の部屋を僕に見せたのか? 不器用な未亡人は僕を気に入り、誘惑するために娘のイメージを利用した、という解釈が1つあるようにも思えるが、どうにもこれは気持ち悪く、収まりもよくない。うーむ、よく分からない。

 

『土の中の彼女の小さな犬』

 プロットの骨太さと、すっと熱が引いていくような終わり方。『羊をめぐる冒険』にもあったような「王道だが村上にしか出せない味」がじわりと染み出た作品のように思える。

 ガールフレンドと喧嘩し、音信不通になってしまった「僕」は、二人で行くはずだったお気に入りのリゾート・ホテルに一人で5日近く泊まった。そこで出会った若い女との会話を楽しむが、途中で「庭」と「手」という彼女の中にあるほの暗い記憶を偶然掘り当ててしまい、酷く後悔する。ひと眠りすると彼女から散歩の誘いがあり、プールサイドで二人は再会する。彼女の中にあった犬との記憶、埋めた犬を掘り返した話、消えない手の匂い……。それらの話を聴いた僕は、迷った末、今度は正解のカードを引く。

  「どうだった?」と彼女が訊ねた。

  「石鹸の匂いだけです」と僕は言った。(p.246)

 完璧な幕の引き方だった。それから僕の中にまだ残っているはずのものと向き合うラストもお見事。

 

シドニーのグリーン・ストリート』

 シドニーにある(実際にはない)「地球の尻の穴」と考えるくらいひどい町、グリーン・ストリートに暮らす大富豪の「僕」が、私立探偵をする話。これだけ作風がガラリと変わって童話風。文芸雑誌「海」の臨時増刊「子どもの宇宙」が初出とのことで、当時の子どもに向けた作品だったのだろうか?(ちらっと調べたところ子供向けっぽい表紙が現れた)

 羊男は全世界に3000人ほどいる。羊男も羊博士も職業は無職。タウンページに電話番号が載っている。など、『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』などのイメージも保ちつつ、羊男に関するあれこれがポップに描かれていて、気軽に楽しむことができた。

 

 

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 ふう。ここまでで2800文字越え。普段の読書メーターの10倍以上は感想を書いていることになる。すごい! ここまでとは行かずとも、特に気に入った作品やレビューがうまく書けなかったと思う作品は、適宜こんな感じでブログに書いていこうと思います。

 コメント等残していただけると励みになります! 感想投稿のアドバイスや異なる視点なども伝えてくださると嬉しいです。では今日はこのあたりで。

 

試し書き

はてなブログ始めてみました。

 

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