さざなみ読書録

29歳のペーペー社会人が主に本の感想、ごくまれに創作物などを不定期で投稿します。さざなみも立たないような日常。

【感想】『それからはスープのことばかり考えて暮らした』 吉田篤弘 2009

 よく行く本屋で、平積みされていたタイトルに一目惚れした。「ジャケ買い」ならぬ「タイトル買い」である。
 実は初めて読んだ吉田篤弘先生。読了後に初めて知ったが、一応三部作の二作目らしい。一作目『つむじ風食堂の夜』は聞いたことがある。読みたい本リストがさらに充実する結果となった。三部作を読んだ後でもう一回ちゃんとレビューを書くかもしれない。あるいは書かないかもしれない。


ざっくりとしたストーリー

 主人公のオーリィ青年は、仕事を辞めて、路面電車が走るこの街に越してくる。サンドイッチ店「トロワ」の店主安藤さんの勧めもあってトロワで働くことになり、サンドイッチに合うスープ作りを任されることになる。
 登場人物は少なく、オーリィ、大家のマダム、トロワの店主安藤さん、息子のリツ君、その友達の森田君、映画館で会う初老の女性、あとはオーリィの姉たちと映画館「月舟シネマ」のチケットもぎりの青年くらいである。これらの人物の共通点を挙げるとしたら、全員が「大切なものをなくしつつも、自分の暮らしを維持している/維持しようとしている」ことだろうか。
 オーリィは、ある女優が出演するマイナー映画を繰り返し見ることを趣味としている。その上映で出会う緑のベレー帽をした初老の女性と親しくなり、最終的に彼女のレシピである「名前のないスープ」を受け継ぐ。

 

感想

 あったかいスープを飲んだ後のような、全身がじんわりとあったまる読後感。大きな事件が起きたり、感情が強く揺さぶられたりする展開はないので、見方によっては退屈かもしれない。しかし、せめて読書でくらい安心を覚えたいぼくとしては、大変満足度の高い読書経験となった。
 最近「丁寧な暮らし」という文言をネット上でよく見かけるが、読んでいる間ずっとこれが頭に浮かんでいた。登場人物はみんな、いくらかの喪失を乗り越えながら、自分が「善い」と思う生活をのんびりしている。携帯電話を放棄しようとしている主人公の『僕』が、こう考えている。
『昔の時間は今よりのんびりと太っていて、それを「時間の節約」の名のもとに、ずいぶん細らせてしまったのが、今の時間のように思える。(p.50)』
 昔の日本映画を観たり、古いアンテナのテレビを叩きながら使ったり(2011年7月24日の完全地デジ化によりアナログ電波を受信するこの形のテレビは絶滅してしまったはずだ)、『僕』はのんびりとした時間を生きている。また、失業中でもさして思いつめることなく、職を探さなければな、という程度である。のんびりしすぎのようにも思うが、ピリピリした空気を殆んど感じることがなくて、心乱されることなく穏やかに読めた。


 時計と教会について

 「時計」の章では今までほのめかされるばかりだった安藤さん、マダム、あおいさんそれぞれの喪失が「形見の手巻き時計」という道具を通して具体的な形を成す。
 あおいさんとマダムが時計を巻き続けたのに対し、安藤さんだけ「なぜか時計が止まらない」というのは、男女差なのだろうか。こっそり時計を巻き続けた息子のリツ君との違いがはっきり表れている。ただし、時計を巻かなかった安藤さんも、時計を巻き続けたリツ君も、ともに教会に祈り続けていたのは親子共通だ。
 父である安藤さんは、牧師さんと言葉を交わし、静かに祈りを捧げる。
 リツ君はもくもくと時計を巻きながら、こっそり祈りを捧げる。
 誰にも言わないリツ君の子供らしさと、牧師さんという社会(ちょっと言いすぎかしらん)との繋がりを大切にする安藤さんの大人性。そして、もういない人のためにともに祈りをささげる親子。
 一話目の『教会が祈る場所であることを、僕はもう長いこと忘れていた気がする。(p.15)』というのはこの伏線だったのかなとついつい深読みしてしまう。

 

 


 人と人の隙間について(余談)

 ここからは完全にぼくについての話である。
 本書では「遠まわり」「知らぬふり」といった表現がされるが、本当はわかっていることや、本当は気になることでも、人は大人になるにつれて話しにくくなってゆく(と、ぼくは思っているし、そういう歳の取り方をしてきた)。ここに人間関係の隙間のようなものを感じる。
 この隙間――便宜上「隙間」という言葉を使うことにするーーは、けっして悪いものではない。
 人それぞれには固有の形があり、ぴったりくっつけようとすると、微妙な凹凸に引っかかってけがしてしまう。ぼくは少しずつ、本当に少しずつだが、自分の形や周囲の人々の形が見えるようになってきた。ぶつからず互いが動きあえる、一番気持ちのいい隙間を、探り探り見つけてきたのだ。もちろんそれまでの間に、おそらくこれからも、大小さまざまな衝突があり、痛みがあった。場合によってはえぐれて自分の形が変わってしまったことも。それでもなんとか自分なりにうまくやってきたつもりだ。
 ともかく、この隙間があるからこそ人間関係が円滑になるとぼくは思っている。そしてもちろん、隙間があるからこそ孤独が生まれるとも思っている。

 この物語は、隙間の物語だ。僕、オーリィ君についての情報はあまりにも語られないし、前述したそれぞれの喪失も、最後の「時計」の章までは「知らぬふり」をされる。ただし隙間が隙間のままで終わらないのが物語の良さであり、心地よさである。
 トロワのサンドイッチに合ったスープを作る。あおいさんのスープを受け継ぐ。それはあおいさんの手を離れ、「ぼくたちのスープ」になる。状況だけ書けばなんの変哲もない物語だが、これはただ僕がぼんやりと生きていたのでは決して生まれなかったバトンの受け渡しであり、このスープを媒質に僕と周囲の人々が「知らぬふり」をしてきた隙間が少しずつ埋められていく。同時に、全ての隙間が埋まるわけではなく、本当に気持ちのいい塩梅で幕が下りる。

 ぼくも「知らぬふり」をしていることは山ほどある。同様に「知らぬふり」をしてくれているから、良き友達付き合いができているとも思うし、「知らぬふり」をしてくれているから、ぼくはいつまで経っても独りだとも思う。
 暖かに読者を包むこの本は、やわらかく隙間を埋める心地よさ、隙間を隙間のままで置く塩梅を教えてくれる。
 ぼくにとってのスープを見つけ、埋めるべき隙間を埋められるよう、まっすぐ生きていきたい。