さざなみ読書録

29歳のペーペー社会人が主に本の感想、ごくまれに創作物などを不定期で投稿します。さざなみも立たないような日常。

【感想】『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹 1986

 新年一冊目の小説は、村上春樹先生初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』。もうタイトルから恰好がいい。

 2日の夜に「中国行きのスロウ・ボード」を読み切り、翌3日の夜に残りの短編を一気に読んでしまった。年末に近所の本屋に行った時に、デビュー40周年だか何だかで平積みされていたもの。積読期間は非常に短かった。

 

1973年のピンボール』の後に前半4編、『羊をめぐる冒険』のあとに後半3編が書かれたらしく(3ページ)、春木作品の中でも初期の瑞々しさ、文体の堅さを感じることができる。一つ一つがパンチの効いた作品なので、ぼくの拙い読書歴ではとても太刀打ちできるものではないが、それでも誠意を込めて、一作ずつ読んだ感想をまとめてみようと思う。

 

中国行きのスロウ・ボート

「僕」がこれまでの人生で出会ってきた三人の中国人を通して、中国に思いを馳せる話。

 模試の試験監督。二人目はアルバイト先のまじめな女の子。三人目は高校の同級生で中国人限定のセールス・マン。程度の大小はあれ、というより二人目の女の子以外は忘れてしまってもいいほどのことだが、三人に対して、僕は負い目がある。

 現在も中国と日本との関係は良好とはいえないみたいだが、1980年当時日本は中国に対してどのような姿勢だったのだろうか。恐らく、僕が中国に対して抱く思いをきちんと描くには、ここらの時代背景を捉えることが、とても重要になる気がするがどうなんだろう。

 

 とにかくこの三人、そして多くの本を通して僕は「中国」を思い描くが、それは現実にある中華民国のことではない。僕の中にしかない、僕の中国なのだ。それは遠く離れた中国についてだけではない。今住んでいる東京についても、まったく同じことが言える。「僕たちは何処にも行けるし、どこにも行けない(p.50)」のだ。

 

『貧乏な叔母さんの話』

 貧乏な叔母さん。この言葉に取りつかれた「僕」は、いつの間にか貧乏な叔母さんに本当に憑りつかれ、周囲から人が離れていく。ある日、電車で向かいに乗り合わせた親子連れの、小さな女の子が「貧乏な叔母さん」である様子を見た僕は、いつの間にか自分に憑いていた貧乏な叔母さんが消えていることに気付く。

 

 これは読んでいて苦しかったな。どちらかと言えば、ぼくも貧乏な叔母さんだからだ。この作品の中で「貧乏な叔母さん」は「冴えない」、「不憫」、「間が悪い」と言ったことのメタファーのように映る。善い生活を送ろうとすると、そこには必ず「よくない生活」が定義される(特に村上春樹の「僕」が送る、あるいは送ろうとしている生活が善い生活だとぼくは考えている)。人も同じだ。ぼくのような、よくない側の人への憐憫と、憐憫を持つこと自体の傲慢を戒めた(もし一万年の後に貧乏な叔母さんたちだけの社会が出現したとすれば、僕のために彼女たちは街の門を開いてくれるのだろうか? p.89 という記述がある)作品のように思えた。

 

『ニューヨーク炭鉱の悲劇』

 これはよく分からない作品だった! 原曲や当時のことをよく知っていないと分からないのかな。20代前半という危険な曲がり角を越えたはずの「僕」の周りで、次々と人が死ぬ。葬式。パーティでは僕に似た男を殺した、という女と会話をする。最後の炭鉱の場面は同名の曲の場面のことか。

 つい最近のことで言うと『100日後に死ぬワニ( 

https://twitter.com/yuukikikuchi/status/1206558270195822593

)』に似た感覚を覚えた。色々な人が死ぬし、自分も死と隣り合わせで生きているが、誰もそれを知らず、穴を掘り続けている。

 

『カンガルー通信』

 これは気持ち悪い! 現代ならストーカーで通報もの。

 商品管理部で働く「僕」が、買い間違えたレコードの返品を求める女性の手紙に対し性的に興奮し、個人的な返信として吹き込んだテープレター(というのだろうか?)を文章にした作品。これが少しずつ明らかになっていく様はお見事。

 唯一共感できたのは不完全だからこそ手紙を出した、というところか。書く人がいて、受け取る人がいて、内容が言葉で伝えられる以上、完全な手紙なんてものは存在しないとぼくは考えるし、完全を目指していたらいつまでたっても手紙は出せないだろう。それにしても「カンガルー通信」は不完全が過ぎるように思えるが……。

 

『午後の最後の芝生』

 『カンガルー通信』と打って変わって爽やかな夏を感じられる描写の多い作品。

 芝刈りのアルバイトをしていた「僕」は、彼女から別れを告げる手紙を受け取り、同時にアルバイトも辞める。最後の仕事として向かった先では男勝りな口調で、昼前からウォッカを飲みまくる未亡人がいた。僕の丁寧な仕事は彼女に気に入られる。仕事後、彼女の娘の部屋を彼女に言われるがまま物色させられ、感想を求められ僕は当惑する。

 

 これはストーリーとしては怪異もないし平坦だが、そのぶんそこに込められたものを読み解くのは難解なのではないだろうか。なぜ未亡人は娘の部屋を僕に見せたのか? 不器用な未亡人は僕を気に入り、誘惑するために娘のイメージを利用した、という解釈が1つあるようにも思えるが、どうにもこれは気持ち悪く、収まりもよくない。うーむ、よく分からない。

 

『土の中の彼女の小さな犬』

 プロットの骨太さと、すっと熱が引いていくような終わり方。『羊をめぐる冒険』にもあったような「王道だが村上にしか出せない味」がじわりと染み出た作品のように思える。

 ガールフレンドと喧嘩し、音信不通になってしまった「僕」は、二人で行くはずだったお気に入りのリゾート・ホテルに一人で5日近く泊まった。そこで出会った若い女との会話を楽しむが、途中で「庭」と「手」という彼女の中にあるほの暗い記憶を偶然掘り当ててしまい、酷く後悔する。ひと眠りすると彼女から散歩の誘いがあり、プールサイドで二人は再会する。彼女の中にあった犬との記憶、埋めた犬を掘り返した話、消えない手の匂い……。それらの話を聴いた僕は、迷った末、今度は正解のカードを引く。

  「どうだった?」と彼女が訊ねた。

  「石鹸の匂いだけです」と僕は言った。(p.246)

 完璧な幕の引き方だった。それから僕の中にまだ残っているはずのものと向き合うラストもお見事。

 

シドニーのグリーン・ストリート』

 シドニーにある(実際にはない)「地球の尻の穴」と考えるくらいひどい町、グリーン・ストリートに暮らす大富豪の「僕」が、私立探偵をする話。これだけ作風がガラリと変わって童話風。文芸雑誌「海」の臨時増刊「子どもの宇宙」が初出とのことで、当時の子どもに向けた作品だったのだろうか?(ちらっと調べたところ子供向けっぽい表紙が現れた)

 羊男は全世界に3000人ほどいる。羊男も羊博士も職業は無職。タウンページに電話番号が載っている。など、『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』などのイメージも保ちつつ、羊男に関するあれこれがポップに描かれていて、気軽に楽しむことができた。

 

 

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 ふう。ここまでで2800文字越え。普段の読書メーターの10倍以上は感想を書いていることになる。すごい! ここまでとは行かずとも、特に気に入った作品やレビューがうまく書けなかったと思う作品は、適宜こんな感じでブログに書いていこうと思います。

 コメント等残していただけると励みになります! 感想投稿のアドバイスや異なる視点なども伝えてくださると嬉しいです。では今日はこのあたりで。