さざなみ読書録

29歳のペーペー社会人が主に本の感想、ごくまれに創作物などを不定期で投稿します。さざなみも立たないような日常。

台無しにした昨日は帳消しだ

ハックルベリーに会いに行きたいですね。

今日から仕事上の精神的メモも臆面なく載せていきます。

 

 

仕事柄、僕はそれなりの人数の前で偉そうに喋らないといけないときがある。というか、かなり多い。

連絡をするのとは違って、喋る、というのがまた難しい。

しかもその瞬間は不意にやってくることがほとんどだ。だからネタは常にいくつか持っておかないといけない。

 

ネタ出しはたいてい車か風呂の中。

 

たとえば、自分の失敗を自虐にならない程度にまとめ上げてみる。根暗の特徴、独り反省会もこんなところで活きている。

 

「人間のすることに絶対はない」というのが恩師の教えの一つだ。だからミスを前提にチェック体制を整えましょう、という意味である。

 

実際に今日僕もやらかした。報告した数字が一つ間違っていて、しかもその一つは緊急性こそ低いものの、当事者にとれば、そこそこ意味のある一つの数字なのだ。

気付いたときには先の展開のあれやこれやを想像して自分の不出来を嘆くのだが、絶賛働き方改革中の僕はふと考えた。

 

いや、自分に対して狭量すぎやしないか? と。

 

もし逆の立場だったら。

そもそも、その数字はこちらが数えておくべきものなのだ。一つ間違っていようが報告してくれて助かるし、そのミスにマジか、くらいは思うかもしれないが責めたりするほどではないだろう。

(このマジか、が辛いのだがそれくらいの評価ダウンも許せないくらいの狭量さにも辟易するのだ。そんなに完璧人間である必要があるのか?)

 

失敗を恐れすぎとも言えるだろう。

 

寛容な社会になればなるほど、誰かが神経を使って調整しなければならなくなることが多いように感じるが、僕は神経を使いすぎなんだろう。

もう少し自分の仕事に関して寛容になりたい。

 

 

「人間のすることに絶対はない」というのは、ミスはしょうがないからリカバリー力(寛容力も含めた!)を身につけなさい、というメッセージもともに孕んでいるように感じた。

 

 

【雑記】MPが たりない!

「おかたづけ」はまるで魔法のよう。

 家がきれいになることが魔法のようではなくて、一つ片付けるたびに自分の中の何かを消費するのが魔法のようなのだ。

食べ終わった食器。パンの袋。びん。カン。

 

 そういえば実家の母親は本当に何でもないことのように、音もなく僕が散らかした諸々を次々と始末していた。今思い返すと大偉業である。母は大魔法使いか、あるいは片付けに魔力を使わない特殊な人種だったのかもしれない。

実家時代に甘えすぎて魔法の鍛錬を怠った結果、確実にしわ寄せがきている。最も身近な自業自得である。

 

 まず目の前の机の中のごく一部を片付け。魔力(MP)を1消費。

朝ごはんの準備でコーヒーを注ぐ。MPを1消費。

食べ終わる。炭水化物が体内に入り消化が始まる。MPを1消費。

これで洗顔着替えでもしようものなら、あとは出勤用の箒に乗って飛ぶ僅かなMPくらいしか残らない。

目の前の昨日食べたサラダの皿を片付けるためのMP1も惜しいくらいだ。

 

 夏休みに生徒以上に休みを取ったというのに、MPが回復する兆しも最大MPが増える見込みも、まったくない。

夏休みが終わり間違いなく今以上に余裕がなくなる日常、

絶対に、MPが、たりない!

 

 

 

 

注1:片付けにMP消費という概念は確か川尻こだま先生(あるいは藤井おでこ先生)か中憲人先生(あるいは犬のかがやき先生)がエッセイ漫画ですでに使っている気がする。オリジナリティはない。

注2:ちなみに、ケリー・マクゴニカル先生のスタンフォードでの授業によれば、MPはそのまま「意志力」という言葉がつけられ、脳科学の専門的な研究がなされているらしい。

注3:箒で出勤するのはあまりに前時代的かもしれないが、実は僕は今でもたまにやっている。微妙に汽車に間に合わなさそうなときに便利。

 

【日記】木が怖い

今日、とつぜん、木が怖くなった。

 

今日は外を眺めていることが多かった。今日の仕事は15分ごとのアナウンス。そのほかは、ほとんどずっと待機だったからだ。

外にも行けず、ものも食べられず、無為に時間が過ぎていくことが耐えられなかった僕は、窓から見える景色を何度も何度も見直していた。

 

窓から見えるもの。隣の棟のクリーム色の建物。50mほどの長さで自分のいる棟と並行になっているそれは、今時珍しい二階建てで、自分のいる二階からは棟の間の中庭が見渡せた。

建物同士の間には、それぞれの棟に沿って木がそれぞれ何本か植えられている。

こちら側の方が自由気ままに、そして長い間枝を広げ続けている。いくつかの幹は切り落とされてか風雨に飛ばされてか、途中で途絶えている。隙間からうろを覗かせているものもあった。

自分が眺める窓の一番近くにある木、その力強い根、うろができたら自分がすっぽり収まってしまいそうな幹、奔放に、しかし確実に上へと伸び続けている枝、風にはためいて乾いた音を鳴らし続ける葉。

これらを下から上へと眺めた時に、突然、言いようのない恐怖が僕の足元から這い寄ってきた。

その大きさに、そのあまりの包み隠さない生命に、動かないはずのものが上は上へと枝を伸ばし続けている事実に、僕は完全に恐れ慄いた。

 

あんな生命の塊がよいしょ、と根を掘り起こして、のしのしとこちらへ向かってきたら、ちっぽけな僕は何もなす術がないじゃないか。木は動かないと言いながら、こいつは今も、上へ上へと動き続けているじゃないか。

そんな木が、職場の敷地内にも夥しい数ある!

 

もちろん、木が歩くわけもなく、今日も次世代もこの木とは持ちつ持たれつの関係を続けるのだろうが、なるべく木を怒らせることはしないようにしよう……と思った。

 

ちなみに、もしかしたら同じことを思っている人がいるかもと思って「木 怖い」でググってみたが、木をホラーの小道具に使うものばかりで、木そのものへの恐怖が書かれた情報はなかった。

 

【雑感】無粋を押し付け合う

夜の扉を開けて行こう

支配者たちはイビキをかいてる

 

 

ブルーハーツの1000のバイオリンが好きになったのは高校生の頃。勉強、親、教師。ままならないことばっかりだった僕は、この反体制的な歌詞とそれを激しく吐き出す歌に取り憑かれていた。

なんであんなに勉強しろって言われるんだ。

なんでそんな仕事が上手くいかなくてヘラヘラしていられるんだ。

なんで正しいことしか言ってくれないんだ。

なんでみんな無粋なことばっかり押し付けてくるんだ。

なんで、なんで、なんで。

 

 

それから十年弱。二年前。会社のイベントでバンドをすることになり、その曲決めで久しぶりにこの曲を聴いた。やっぱり好きだなあと思った。

しかしそれ以上に、すでに自分が体制側であり、「支配者」であることに気づいて悲しくなった。

 

 

それからさらに二年経って今。相も変わらず「支配者」なのだが、それでも見方は変わってきたように感じる。

 

結局のところ、排水溝掃除なり教師なり政治なり、誰かしらが正しいことをして、誰かしらが正しいことを言わなければいけないのだろう。

その行為はときに耐えられないほど無粋だが、それを背負ってやるのが大人の役割なんだろう。

 

だから僕は正しくあれと説教し続けよう。その部分の無粋は僕が請け負うから。

【音楽】graceの虜

先日、妻と藤井風のライブに行った。

※以下、わずかに藤井風アリーナツアーのネタバレ有り。

 

 

 

 

当日まで指折り数え、と言うほど楽しみにしていたわけではなかったが、実際に生の藤井風を体感したら、そのあまりの「藤井風性」に虜になってしまった。当日の曲を集めて作ったApple Musicのプレイリストはここのところ毎朝の通勤のお供だ。

 

何にに惹かれたか仔細に記すには僕の表現力があまりに乏しいが、頑張って書こうと思う。

まず何より、弾き語り、バンド、パフォーマンスの切り替えとバランスがあまりにも完成されていた。普段藤井風の曲を聴くときにはYaffleの編曲力もあってか、印象はいつも「藤井風」とバックミュージック。ところがその日は藤井風の弾くピアノが、藤井風の声を支えるバンドが、一つ一つの音が確かな主張を持って耳に飛び込んできた。そういえば2021年末の紅白も『燃えよ』が同じ感じだったと今になって思う。

『さよならべいべ』のギターソロ、あんなにもギターのための音楽だったんだね。

 

若く国籍豊かなダンサーたちのパフォーマンスも大変パワフルで、藤井風がそう表現するなら、当然そこにいるべき、そう振る舞うべきと思えるような洗練され尽くしたものだった。

 

そして何よりも終盤の『grace』である。

実は、このライブを迎えるまではあまり好きな曲ではなかった。藤井風のバラードの中でももったりした印象があるし、曲調も全体的に平坦だし、PVの影響か宗教色もうっすら感じるし。

 

否。これらは全て藤井風のgraceを表現するために必要不可欠な要素だ。妻は「ライブ映えする曲だよね」と言っていたが,それ以上のものがあのライブにはあったように感じる。音源の鮮やかさが、ライブ後から一気に増した。

会場入りが遅く残念ながらI am youスウェットを手に入れ損ねたが、I am youってそう言うことかと、当日曲を聴いて初めて分かった。それも知らずに買おうとするなんて無粋だったね……。

 

あなたはわたし。わたしはあなた。

これに気付くことが大事だった。

あたしに会えて本当によかった。

【雑感】マメについて何も知らないね

今週のお題「マメ」

 

初めてはてなブログの「お題」に手を出してみる。ひたすらアウトプットの訓練。

 

今週のお題がマメらしいので、マメについてしばし想いを馳せる。小豆、大豆、ピーナッツ……。

あれ、ピーナッツは豆なのだろうか。

そもそも豆とはどのような穀物のことを指すのか?

小さいことや細かいことの代名詞としても使われるが、そら豆はそれにしては少し大きいんじゃないか。大豆は言うほど大きくないじゃないか。そもそもマメであることのマメと豆とは自分が想像しているような関係性であっているのか。

なんと、マメについて何も知らないことが明らかになった。これもまた勉強である。

 

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ひとつ、豆に関する思い出話。

子供の頃、僕は空豆のあの苦さが嫌いだった。

小学校から帰ったあと、共働きの両親が家にいない日は祖父母の家でよく過ごした。

祖父母は実にうまそうにビールを飲む。アテはいつも塩茹でにした空豆だ。

僕が飲めない液体を飲みまくるふたりが羨ましくもあったが、空豆をつまみ食いして吐き戻した日から、あんな苦いものを食べるくらいならビールなんか一生飲まなくてもいいと思っていた。

 

いつの間にか二十歳すら遠い過去になりつつある。ビールの味も空豆の苦みも楽しめる歳になったが、肝腎の空豆を茹でてくれるおばあちゃんはもういない。